原付のない生活

原付が動かなくなってから一ヶ月程度経ちました。いやあ最近時の進みがあまりにも早い。

 

最近ちょっこと買い物に行くつもりが何時間も目的もなく歩くことが多くなりました。原付で毎日のように100キロ程度走っていたために常に景色が変わるのが日常となったので変化のない部屋に居続けるのに耐えられなくなったのでしょう。しかし聴き飽きた音楽を引き連れて近場の見飽きた景色を毎日見ると言うのは中々に面白くないことです。原付なら自宅周辺にない景色をポンと提供してくれると言うのに私の脚はそれができない。結局は自宅にいる時の退屈さを吹き飛ばせないでいるのです。

ふと高校の頃馬の合う友人とひたすら歩き続けた記憶が思い出されました。今も東京を中心に一緒に歩いては居ますが、高校の頃のように下校ついでに毎日のように歩き回るなんて言うことは出来なくなりました。「今日は横浜駅まで歩こう」「今日はあの方角に歩いてみよう」口には出さねどもお互い暗黙の了解とでも言わんばかりにくる日もくる日もひたすら歩いたのです。

しかしまあ毎日歩いていると言うのによくも会話の話題が生まれたなと今になって思います。どんな話をしていたかは思い出せませんが、少なくともとても楽しかったことは覚えています。たまに都合が合うと今も長々と共に歩くわけですが、あの頃と話題はなんら変わっていないように思います。大人のつまらない会話なぞありません。ゲームなどの共通の話題やら面白い動画やらくだらない冗談やら、私たちは今もなおあの頃のままなのです。可能ならいつまでもあの頃のままでいたいですね。

 

さて、原付を失い家に籠ることが多くなりましたが恵まれた時代に生まれたなとしみじみ思います。ええ、ネットです。この機械一つで無限に時間を潰せるので何もしないで横になるだけの生活を避けられております。ふとネットが登場する前の人間はどうやって家で時間を潰したのだろうと考えてみましたが嫌な気分になりました。思いつくものだと、テレビや本、絵などの趣味でしょうか。十分なように思いますが、やはりネットの快楽を知っているとどうしても退屈に思えます。なんせネットのない時代は「受け取る」ことしかできません。ただただ情報を受け止めるだけ。しかしネットが普及した今私たちは「発信する」ことができます。知識であれ、趣味であれ、それを不特定多数に公開できるのです。受け取り発信することができる今の時代はとても恵まれているなぁなんて思います。昔だったら引き出しにしまわれたであろう絵を世界に公開できる。ああなんと素晴らしいことか。

 

さあ明日は日雇い労働です。なんか化粧品詰めるらしいです。正直行きたくないですが、まあ金は必要なので働きますよ。私が願っているのは二つ、寝坊しないことと、変な人と働かないこと。まあ引っ越し以外はみんな優しくしてくれたのであまり不安がらないことにします。ああ三連勤、良いように考えれば三万円。三万円、子供の頃だったら超大金なのになぁ。

 

今日の話はこれで終わりです。ありがとうございました。